魔獣使い

騎士たちが引き上げたあとに残されたのは、立ち上がることすらできないほど痛めつけられた商人だけとなった

魔獣捕獲用の罠は騎士団が回収したらしい

表向きには危険物の撤去だが、おそらく今後も魔獣狩りで使うためだろう


騎士団がここを去って数刻経っても、本来ここで生活をしていた野獣たちは姿を見せていなかった

街道から離れたこの辺りは人通りが少ない。野獣もうろついているのに、これといった用もないのにわざわざここで足を伸ばす必要がないからだ

通常であれば何事もなかったかのように彼らは戻ってくるはずである


不思議ではあったが、すぐに立ち上がることのできない商人にとっては不幸中の幸いに思えた

尤も、この悪運が味方していなければ彼は過去の人生で何度も命を失っていたはずであったわけだが


全身の痛みで動けぬまま、あと数刻で夜を迎える

昼間はややおとなしい魔獣の生息地となっているが、夜は山や森から獰猛な種類の魔獣が狩りに出てくるはずだ

ドラゴンのブレスに焼かれて死ぬという理想を持ってはいたが、今仮にドラゴンがここに降り立ちブレスを吐こうものなら這ってでも逃げるだろう


王国騎士団…奴らを許すことはできない

「必ず…復讐してやる…」

歯を食いしばり悔しさのあまり目の前が滲む

瞬きをするたび視界が紅く染まる

血の涙だった

商人の言葉にならない感情は、魔獣すら怯ませるほどの唸り声として夜と昼の隙間に反響していく


どれほどの時間そうしていただろう。血の涙が乾き開けることさえままならなかった目を舐める感触

月と星々以外に商人の唸り声を、もしくは嗚咽を受け止めてくれる存在がいたことに、ほんの少し安堵を覚えた


そして唯一の有機的観客の姿を見るのだ

そこには月と見紛う悠然なる姿。星々のように煌めく妖気。夜そのもののように深い闇を湛えた瞳

それはどんな文献にも記されていない巨大で美しい獅子だった


「お前は…何なんだ…俺を食いに来たんじゃないのか…」

やっとのことで絞り出した消え入りそうな言葉を、獅子は受け止めた

『ジェネライトの大きな揺らぎを感じて久方ぶりに下界へ降りて来てみれば、斯様に小さき者が我を呼び寄せるほどの怨嗟を響かせておるではないか。貴様に興味が湧いたぞ』

頭に直接響くように獅子が答えるが、商人は要領を得ないままだった

「興味が湧いてどうするというのだ、獅子よ」

『ほお…戯れに思念で疎通を図ってみたが…我の意思を解するか…面白い』

「答えになって…ないんだが…」

長年の商人生活で身に染み付いた口調すら忘れて会話を続けるが、限界は近い

『貴様を喰らうのも悪くはないが、せっかく目覚めたのだ。暫し付き合うてみるのも一興か』

そういって獅子は霧散するように姿を消してしまった

『動けるようにはしてやったが、このままここで待つが良い。今宵は面白い奴によく会う。下界も悪くはないな』

どうやら姿は見えなくとも獅子は近くにいるらしい

『ふふ…漸く来たようだ。貴様にとって重要な相手となろう男だ』


そう言ったきり獅子は何度か呼びかけても返事をしてくることはなかった

そして獅子が言った通り立ち上がることもできるようになっていることに気づいた時、1人の男が目の前に現れた


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