生暖かい感触に意識がぼんやりと目覚め始める
あたりはずいぶんと騒がしい
(あんだァ?ずいぶんと…)
視界は真っ赤で何も見えない。体の自由は利かない。体に何かがぶつかる感覚
『バケモノ!出ていけ!』
この声は聞き覚えがある。村の子で、名前は…
『バケモノ!デニーから離れろ!』
周囲には他にも誰かいるようで、口々に罵声を浴びせてくる
(バケモノ…?オレが…?……デニー…デニー…どこかで聞いた名だ…)
視界が少しずつ開けてくる。赤く靄がかってはいるが、少しずつ周囲の状況が見えて来た
見覚えのある顔が恐怖に歪み、手に手に石を投げつけてきていた
(おい、なんでみんなオレに石なんて…)
批判を口に出したつもりだったが、代わりに聞こえてきたのは獣の唸り声だけだった
(何なんだ…一体何なんだよ…)
唸り声にしかならないと知りながらも嘆かずにはいられない
あんなによくしてくれた村の人たちが化け物を見るような目で…いや、実際に化け物と罵られている
ふと自由が利かない手元に視線を落とす
そこには誰よりも優しく、誰よりも愛してくれた妻の無惨な姿があった
(あ…あ……ああぁ…デニー…デニー……)
『バケモノめ!アンドレイのあんちゃんがいないのをいいことに…村をこんなにしやがって!デニーを食い殺しやがって!』
絶え間なく投げつけられる石に一片も注意を払うことなく、村人の発した言葉を頭の中で繰り返す。理解が追いつかなかった
(アンドレイはオレだろ!どうなってる!どういうことなのかちゃんと説明してくれ!)
必死に訴えかけるように立ち上がろうとすると、石を投げつけてきていた村人は半狂乱となり逃げ出したり、尻餅をついたりした
誰も自分がアンドレイだとは思いもしていないらしい
絶望的な状況に助けを求めるように腕の中で冷たくなっていく最愛の妻に再度目を向けた
真っ赤な視界の中に映るデニーは顔の右下がズタズタに引きちぎられており、とても旨そうだった
人間の女は肉も柔らかく体毛も薄い。特にこの女は身も引き締まっており、極上と言えるだろう
村に入った時に最初に食った老婆とは大違いだ…
(ああ、早くかぶりつきたいというのに、非力なくせに邪魔な人間ども…)
アンドレイの思考は徐々に魔獣じみてきている
本人にその意識はなく、村人は当然変化などに気づくわけもなかった
そしてついにその意識は欲望に負け、愛する妻の体を貪り始めた
嬌声にも似た咆哮をあげながら…
腰を抜かしていた村人たちもあまりに壮絶な食事を見せつけられ、必死に逃げ始める
最愛の妻の胸から上をたいらげ、いよいよ臓物の詰まった腹部に食らいつこうとしたその瞬間、アンドレイだったものの胸のあたりが突如爆炎をあげた
ンヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
あまりの衝撃に仰け反りったが、2度ほど転がったあと体勢を立て直す
殺意と魔力が向かって来た方向に目をやると、か細い女が杖を構えてこちらへ向かって来た
「間に合わなかったか…姿を見せたわね、魔獣め!」
旅人が着る長いローブを纏った彼女はそう叫ぶとまた爆裂の魔法を3発連続でアンドレイに放つ
ふいをうたれた先ほどとは違い、爆発の衝撃はアンドレイを吹き飛ばすほどの効果は発揮しなかった
「くっ…やるわね…」
女がフードを取ると、突然の魔法使いの乱入の行先を見守っていた村人達から息が漏れる
こんな状況であっても目が奪われてしまうほど、その魔法使いは美しかった
その顔を見て、アンドレイは動きを止めた。どこかで見た顔のはずだった
「村から出ていきなさい!」
アンドレイや村人の反応を気にも留めず、女は爆裂魔法を連続して放つ
さすがに攻撃を受けすぎたのか、アンドレイは徐々に後退していく
「受けなさい」
正義感に満ちたような声から打って変わり、残酷なほど冷徹な声で女が呟く
女の中に高まる魔力に本能が危機を告げる
女を中心に渦巻き始めた風が一点に集中し始める
女が呪文を唱えると、集まっていた風が炎へと変わり、巨大な火球を成した
『ファイアボール』
火球がアンドレイに向かって射出される
アンドレイも危機を察知し抵抗を試みていたが、火球の衝撃と爆炎により数メートル吹き飛ばされ、森へ向かう街道に面した村の門に激突した
グルルルルルルゥゥ…
もはや人間らしい思考は残っておらず、忌々しい人間の女への憎悪とここから逃げろという本能の警鐘のみが頭の中を支配している
アンドレイだった者は本能に従い、村を出て森の方へ向かうことにした
「人に化けるという魔獣の噂を聞き、ここまで退治に来たのですが…間に合いませんでした…」
女は悔しそうに歯噛みする
「貴女は…」
村の老人が訪ねようとすると、途中で詰まった言葉を受け取り女は名乗った
「私の名はスガラメルデ。魔獣を滅ぼすためにここへ参りました」
魔獣が去った門の方へ向き直り、誰とはなしに言葉を続ける
「あの魔獣は強大です。おそらく私では倒しきれない…山へ追い込み結界を張りましょう。せめて山から出ることだけは防いでみせます」
そうしてスガラメルデは森に館を設え、魔獣を山に封印することとした
彼女は山の番人として結界を守り魔獣が下界に降りてくることを防いでいたが、数十年経ったある日村人が魔女を訪ねると、今までそこにあったはずの館ごと魔女は消えてしまっていた
満月の夜にはヴォーという咆哮が山の方から聞こえ、いつしか山の魔獣はヴォーと呼ばれるようになったという
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